『木人のボク』
1 桜の花
ボクは木人だ。一般的にはモクジン(一番ニュートラルな呼び方)と読み、時にはキビトと読む。どっちにしても、特に意味はない。
だが今朝、鏡を見ると左目の斜め上あたりに桜の花が一輪咲いていた。つぼみをすべて切り落としたと思っていたが、一つ見落としたのかも知れない。その淡い紅紫色の花を鏡ごしに眺めていると、自分が木人であることにも意味があるように思えてきた。
木人で得するところ。花粉症にならない。基礎が木でできているからというより、鼻から呼吸をしないから。もちろん顔には鼻も口も付いている。見た目も普通の人間、つまり猿ベースの人間にそっくりなのだが、口は言葉を発するためだけに設計されている。肺はあるが、それも酸素を体に取り入れる機能はなく、声帯を響かせる空気を吸って吐く機能しかない。鼻の穴はどこにもつながっていない行き止まりで、見た目だけのものなのだ。
頭から花が生えるというのは、ボクがロボットのような機械ではなく、生き物であることを証明している。製造されたわけじゃない。栽培された身だ。——生まれてはいないが、植えられてはいる。
我は考えている——それは存在しているということ——そして、人間である、ということではないのか。
もし「人間する」という動詞があったとすれば、ボクはちゃんと人間していると思う。この話を高根にすればまた嫌みを言われるだろうけど、彼女はただ単に怒っている気がする。何に怒っているかといえばもちろん、人間社会、いや、人間そのものに対してだ。人間に人間扱いされない連中が、人間であることを証明しようとするなんて、アホクサイ。そう言われると反論はできない。自分で言い張ってもしょうがないことくらいボクも分かっている。ボクはボクで、怒っているのかも知れない。何にと聞かれれば、まあ、自分自身に、としか言いようがないのだが……。
とはいえ、薄紅色の道を歩くのは、何だか誇らしい。こんんだところを一緒に歩ける人が高根しかいないのは残念だが、たまにこうして、木の多い所を歩かないと何だか寂しくなってくる。恐らく、人間が猿を見る眼差しより、木人が木を見る眼差しの方が優しいのだろう。人間が動物園に行く理由と、木人が森に行く理由は根本的に違う気がする。
ヒラヒラと散りゆく花びらを見ていると、思わず「よく頑張ったね」と誰に向かってでもなく呟いてしまう。
「バッカじゃないの」と、高根さまのご叱責。
高根に今朝の桜の花の話をすると、男のくせにピンクの花を咲かせやがって、とのご指摘。いや、桜の木に男も女もないと思うのだが、彼女の性格を知っているので黙って聞く。批判めいたことを言うことで心の中に固まっている鬱憤を晴らしていると考えれば、せめてボクだけでも理解しなければ、と思う。
ちなみに彼女は松の木で、どちらかといえば男性的な木と思える。それもわざわざ言わないが、おそらく彼女も時々松ぼっくりの処理をしているのだろう。
考えたいことではないけど、ボクの桜の花と高根の松ぼっくりは、ボクたちの繁殖機能だ。木人は人間のような生殖器を持たない。形だけは人間と変わらない鼻とは違って、あそこはキューピーみたいにつるんとした肌になっている。つまり、木人には性別がない。「女の人みたいに」と言われても、そもそも女も男もないのだ。
とはいえ、性別がなければ人間社会で生きていくことは……まあ、不便だ。人間には無性というアイデンティティーを選択する人が増えているようだが、木人にとって無性は選択ではなく、宿命。
その宿命をボクたちに与えたのは、科学者たちだった。正確に言えば、人類改善計画・木造人研究部の科学者たち。彼らは木造人未来プロジェクト(通称:TPFP——Tree People Future Project)を立ち上げ、ボクらを製造した?栽培した?生殖した? まあ、とにかく、作った。
TPFPは二十年間続いたが、数十年前に多くの批判の元、廃止された。その間に作られた木人の数は三万人を越え、最初は日本全国の各地に配置されたが、企画の廃止とともに政府からの支援も減り、居場所をなくしたと感じた木人たちは、大勢日本を離れ、南米やアフリカの森に移住した。とはいえ、そうしたのは三分の一ほどで、今も二万人程度の木人が日本に住んでいる。そうやって日本に居残った我らは「居残り木造人」と呼ばれるようになり、さらに、略して「イノコ」となった。「イノコ」は、現在はかなり差別的な色を帯びた言葉に化している。
興味深いのは、最近、ノンバイナリー(男性・女性の二項対立を否定し、個人としての個性を主張すること)の人々のことを「イノコ」と呼び始めたことで、その結果、木人への差別も複雑化している。もちろん、社会の間違った見方は正さなければならないと、街に出てデモをする木人の団体も存在する。ただし、特に子どもの頃は周りの人々と同じようになりたいと思うのが自然で、大体は小学校に入るときに決めさせられた性別で生きていく。もちろん、少数ではあるが、途中で変える人もいるし、転校や進学を機に変える人もいる。ボクの個人的な経験としては、男であることがとても自然に感じられ——錯覚かも知れないが——女性に魅力を感じる。
誤解を招かないために言っておくが、ボクは高根が好きとかそういうんじゃない。苗として植わった時から知っている——もしかしたら種から生えた施設も同じかもしれないが、これは記憶も記録もない——唯一の人ということと、なにも気兼ねすることのない、木人のいう「木の気が知れた仲」だから、定期的に会って話すようにしているだけだ。
花が咲くというのは、繁殖機能が備わっている証拠だと思う。しかし、木人が自ら子孫を作った例は聞いたことがない。(南米やアフリカの森に住んでいる木人たちはどうだろう)。木人の繁殖を禁止する何かの法律があるのかもしれない。科学者たちがどこかの研究室で苗を作っていたのだろうが、TPFPが廃止されてからはそれも行われなくなったので、廃止前に植わった最後の世代である中学生たちが、少なくとも日本国内では一番若い木人のはずだ。何にでも名前を付けるのが好きな人間たちは、彼らをラストチルドレンと呼ぶ。
「三十歳になった気分はどう?」高根が聞く。
今日はボクの誕生日で、祝いではない、誕生日を言い訳にした飲み会を二人で開いていた。誕生日といっても、苗のときに始めて個人用の鉢に植えられた日のことで、生まれた日ではない。
「いや、三十歳の童貞になった気持ちはどう?」
「お前だってそうだろ」
「処女の清潔さと童貞のしょうもなさを一緒にしないで」
木人に処女も童貞もない。数十年前、木造人が設計段階にあったころ、科学者たちは木造人に生殖器をつけるかつけないか、その機能はどうするかをめぐって激しい論争を起こしたらしい。最終的に勝利したのは次の論だったようだ。木造人はそもそも環境を破壊したり、戦争を起こす人間の「負の人間性」を克服し、新たな、自然に優しい存在に向けて人類を進化させる試みである。性欲は人間から理性を奪い、非合理的な行動、時には暴力的な行動を駆り立てる。生殖の機能を備えない形だけの生殖器でも、木造人は感情を持つ極めて人間に近い存在なので、いずれ性欲が芽生えるかもしれない。想像妊娠があるように、想像性欲も不可能と言えない。これは科学者ではなく、文学者の言葉のようだが、そのおかげでボクたちはキューピーの仲間となったのだ。
「処女と童貞じゃない木人なんていないじゃん」
「バカ、知らないの? 最近は増えてるらしいよ」
「何が?」
「手術で性器つける人」
高根はいつも怒るくせに新聞は必ず読む。ボクにはまったく初耳の情報だった。
女性(として生きている人)ならキューピーの部分を切って、中に柔らかい空洞を付ける。男性(として生きている人)なら少しややこしく、血流がない分、勃起の機能を備えるためには柔らかいゴム素材の細長くて分厚い風船のようなものをキューピーの部分に付けて、小さいポンプを使って膨らませるらしい。
「ポンプ?」
「風船の根本のところに穴があって、専用のポンプでシュッシュッと膨らませるんだって」
あまり想像したくない映像が頭に浮かぶ。そこまでして人間に近づきたいのだろうか。ボクらは人間より優れた人間になるはずだった。性欲のような下らない本能に左右され、自分たちが生きている環境を破壊するばかりか、生存に必要な分より遙かに多くの資源を強欲を満たすために使い、それでも足りずお互いを殺し合う人間を、ボクらは乗り越えるために作られた。人類の希望だったはずだ。なのにポンプとは……。
「高根はその手術を受けたいの?」
「彼氏がそうして欲しいというなら」
「彼氏?」
高根は綺麗の部類に入る容姿をもっている。街中でナンパされたり、出会って間もない人にデートに誘われることはしょっちゅうあるようだ。しかし、木人と知っても誘ってくる人はなかなかいないし、知った時点で付き合おうとする人もかなり少ないと思う。性欲がないのに本当に恋愛感情があるのかどうかはわからないが、木人同士で付き合い、結婚する人も少なくない。高根の問題は、木人には魅力を感じないというところだ。付き合うなら人間と付き合う。何度もそう言い聞かされている。
「もしもの話」と高根は言う。
三十になっても、風になびく髪は一本一本が生きているようにしなり、白く透明な肌はほんの少し緑がかり、松の木人特有の上品さと潤しさが光っている。十代からモデルにならないかとスカウトされることも何度もある。人間にも彼女と付き合いたいと思う人がいるのではないだろうか。何故木人であるだけで人間と親密な関係を築けないのか、ボクにはわからない。
「そんな手術をしたってなにも感じないんだろ?」
ボクは少しいらだたしい気持ちになって言った。
「自分のためじゃなくて、相手のためにやるんだよ。木人同士で人間ごっこしてるバカもいるだろうけど、本来は人間としっかり愛し合えるためにするべきなの」
「高根は人間が嫌いなんじゃなかった?」
「人間が嫌いな気持ちと、人間と愛し合いたいという気持ちに、矛盾はないの」
じゃあ、その嫌いも愛も、ボクが知っているものとは違うのかも知れない。
ボクは時々思う。木人であるボクの感情と、人間が感じる感情は、同じなのだろうか。同じでなければ、ボクの感情はいったいなに?
桜の花はニキビのようなものかもしれない。ただの思春期かもしれない。年を取ることが遅い木人には、思春期も遅いのかもしれない。ボクの思春期は、人間のそれとは違うのだろうか。
ボクが撮った写真をきれいを言ってくれた。それだけだった。いや、それだけではない。それを言う彼女の目がとても優しく笑っていたから——彼女が好きになった。
どんな人かはよく分からない。公園のベンチに座って、撮ったばかりの写真をパソコンで編集していたら、後ろから「きれい」と、女性の声が聞こえた。振り返ると、口に煙草をくわえた茶髪の不良少女がボクの肩越しに画面を覗いていた。
「なんで?」と言う。
「何がですか?」と聞き返す。
「ただ歩いてる人が写ってるだけなのに、なんで涙が出そうになるの?」
朝の新鮮な光が、仕事に急ぐサラリーマンを後ろから包んでいる写真だった。みかん色の抱擁。そんな題を考えていたところだった。
最初の印象とは違い、彼女は不良でも少女でもなかった。ボクが大学で教えているような、二十歳前後の若い女性であり、人間だった。
「もっと見ますか?」
そう聞くと彼女は「うん」といって隣に座った。写真を一枚一枚、画面に出すと、彼女は何度も「きれい」といった。煙草は地面に捨てて、いつの間にか最初の不良っぽい不機嫌の顔ではなく、とても優しい笑顔になっていた。散歩中に撮ったボクの下らない写真でこんなに感動してくれる人がいるなんて、想像もしていなかった。
「こういう写真、どうやって撮るの?」
「どうかな、何かを見て、わあっと思ったら撮る」
「わあ」
「そう。うまく説明できないけど」
彼女はうんうんと頷いた。
「人間の心ってすごいんだね。見ただけで、わあって感じられるって」
人間の心。ボクにあるのは、それと同じものだろうか。黙っていればよかったのに、とっさに口に出してしまった。
「でもボクは人間ではない……です」
目をまん丸にした彼女の顔は、今度は仔犬のような、また違う表情になった。
「もしかしてイノコさん……ですか」
差別用語に「さん」をつけると変な感じがする。差別しているのか尊敬しているのか、プラマイゼロ、になるのか。彼女の場合、たぶん何も考えずに出た言葉だろう。
「まあ、そうです」
彼女は黙ってしまった。立ち去るのでもなく、ただボクの写真をじっと見つめていた。そしてボクは彼女が好きになった。ボクの好きが人間の好きと同じかどうかは分からないが、何か水蒸気のようなものがお腹あたりからむくむくと頭のてっぺんまで登り、少し頭がくらっとした。その時彼女がこう言った。
「わたしに写真の撮り方教えてくれる?」
アマチュアのボクに教えられることはほとんどないと知っていながら、うん、いいよ、と答えた。その時はただ、彼女が敬語をやめたことが嬉しかった。
[続く]