2 ラスト・チルドレン
ボクは運がよかった。TPFPが廃止されたときには既に中学三年生だったし、当時は差別どころか、木人は憧れの的のような存在だった。当時一番年上の木人は一九歳だったし、木人と言えば子どものイメージがあった。何も知らない子どもたちに罪はないということが、ボクらをまだ守ってくれていた。だからわりと楽しい少年期を送ることができたし、欲しいものはほとんど与えられた。
木人が「問題」になった理由は複数あるが、まず不満の声が上がったのは、税金のことだった。ボクたちには親がいない。出費はすべて国が負担していた。いきなり孤児が何万人も増えたようなことだ。それもただの孤児じゃない。生きるためには特別な肥料・光・水、そして高濃度の酸素を備えた設備が必要な木人の子どもは、一般の児童施設で育つことはできず、国内各地に専用の施設が設けられたのだった。
プロジェクト廃止の重要な原因となったのは、環境に優しい人類をめざしたのが、逆に多くの資源を使うようになったことだった。木人の足は土から栄養を吸収するようにできているが、人間の足の形をしているため、吸収速度が非常に遅い。夜の八時間だけではなく、昼にも二時間、専用の設備を使わなければならない。人間と同じ学校に通うことを重視した政府は、木人が通う学校に木造人生態維持期を設置することを要求した。このすべてのために使われたお金と燃料は、経済的にも環境的にも優しいとはいえないものだった。
ボクが高校生になった頃から、変化は始まった。大学に入った第一第二世代の木人たちが「人権」という概念を学び、木人一人一人の人権を主張する運動を始めたのだ。プロジェクトが廃止されてから、支援が徐々に減っていたことは確かだ。特に大学生の木人は自活することを勧められ、学力で奨学金がとれない学生には、学校を辞めて働き始める人も増えていた。だがそれよりも大きな打撃は十八歳以上の成人した木人には、室内ではなく、森で生活することを勧められたことであった。論理的に木人はそのために設計されているし、定まった住み家を持たず、電力もほとんど使わずに生きることが、プロジェクトの目的だったのである。しかし、子どもの頃から最先端の設備で育った木人たちに、いきなり森で生活するなど、できるわけがない。木人の大学生以外にも、人間の運動家たちが集まり、デモを始めた。
このときから木人は、子どもではなくなった。
運良く、ボクが大学に入る頃までも木人と同情する人間が多く、四年間の奨学金を獲得することができた。何の計画もなく興味本位で文学史を勉強したら、なんとなく大学院に進んだ。十八歳からいろんなバイトを掛け持ちして、二十二歳で自分の小さなバーを開いた高根が資金を恵んでくれたことは、心底感謝している。ボクが一年前に博士号を取ったとき、世間はすっかり木人を差別視するようになっていて、修了式で拍手してくれたのは高根だけだった。指導教授の計らいで講師として大学に残れたのも、奇跡だったといえる。
「大学の先生?」と愛歌がいう。
公園で出会った彼女の名前はマナカだと教えられた。その場で連絡先を交換して、次の週末に写真を教える約束をした。同じ公園で待ち合わせて、いま大学から来たというと、そう聞かれた。
「一応」
「頭がいいんだね」
「そうでもないよ」
「イノコさんって、頭がいいんでしょ?」
そういう話は聞いたこともない。黙って彼女のために持ってきた初心者に優しいデジカメを鞄から取り出した。
「イノコさんって、新人類なんでしょ? だから私たちより頭がいいんだよね」
何も言わないでもよかったのだが、ついこらえきれなくなる。
「イノコは差別用語なので、もしできたらモクジンと呼んでもらえるとありがたい」
言ってすぐに後悔する。でも愛歌はなんとも思わない様子で、「へー、ほんとだ。大学の先生っぽい言い方」と言って一人で笑った。間違いを指摘されても平気な性格か、もしくは自分が間違ったことに気づいてないのか。
「私はバカなの。バカだと怒る?」
「怒る?」
「頭のいい人って、バカと話すと怒るんでしょ?」
これには思わすぷすっと笑ってしまった。
「どうだろう。ボクもどっちかというとバカだからわからないな」
この日、彼女はボクのことを先生と呼び始めた。写真を教えてもらうんだから当たり前だと言っていたが、写真の才能は遙かに彼女が上だった。「これみて!」と言われてカメラの画面を覗くと、想像もつかないような独特の構図で捉えた人々や建物や動物や木々が、すさまじい迫力を孕んでボクを覗き返していた。
木人のボクには真似できないのではないかと思わせるような生命力のようなものが、愛歌の写真には自然に宿っていた。
愛歌と毎週写真を撮りに行くようになってまもない頃、知らない番号から電話がかかってきた。
「モクレンの杉山です」
最初は理解できず、何かの販売なのかと思って「今忙しいです」と言って切ろうとした。
「それほど時間のかかる話ではありません」
何かを売りつけようとするわりには声の機嫌が悪い。
「いや、今仕事中で……」
「大学の先生にもなれば、他の木人とは関わりたくないということですか」
「はい?」
他の木人? そう言われてようやくモクレンという言葉の意味を理解した。居残り木造人連合会、通称——木連。人権運動のみならず、全国の木人を繋げ、支援も行う団体で、高根は時々集会にも行っているようだが、ボクは一度も行ったことがない。少し気まずそうなだけで特に意味はないが、連合会の中には、ボクを白い目で見ている人々がいるらしい。嫉妬してるだけだよ、と高根はいうが、ますます気まずくて顔を出す気にならない。
何でいきなり電話をかけてきたんだろう。
「すみません、連合会の方でしたか。突然で聞き取れなくて……」
謝っても機嫌が直った様子はなかった。
「私は反対しましたが、会長を含めた会議の結果、あなたに依頼することになりました」
説明が雑な人らしい。何のことかさっぱり分からない。
「どういうことでしょうか」
「ラスト・チルドレンのカウンセリングです。あなた一応教育者ですよね。たまには同族の役に立つことをしてもいいんじゃないですか」
同族……。どれほど頑張っても思い出せない有名人の名前のように、この言葉の意味は考えるほど遠ざかる。
何故この人が連絡係を任されたかは分からないが、厭味の間に聞き取れた依頼の内容は次のようだった。東京に住んでいるラスト・チルドレンの中に一人問題児がいて、能力は高いのに学校に馴染めず、クラスメイトと喧嘩したり学校をサボったり、問題を起こしているらしい。
木人にも年年変化が施され、ラスト・チルドレンは特に様々な方面で優れた能力を持っていると聞く。科学者たちは、木人を通じて完璧な人間を目指していた。しかしその裏側、ラスト・チルドレンは物心ついた時から差別に直面しなければならず、冷たい眼差しに晒される中で辛い幼少期を送ったのだろう。木連としては、この能力に高い子どもたちをよく育て、同族に役立つ人材にしたいのかもしれない。
断れば何を言われるかわからないので、とりあえず会って話してみることにした。
甘木花歩と初めて会ったのは中学校ではなく、病院だった。
外は雨で、街からは色が消えていた。一応傘はさしているが、雨に打たれたいという願望は、木人特有の本能だろうか。信号機が反射している水溜に靴を脱いで足を浸したい。木に感情があるとしたらこのようなものかもしれない。でも人間の子どもにでも、裸足で水溜を蹴散らすことは楽しいのではないか。ボクの感じ方は木人とは関係なく、ただ子どもっぽいだけなのではないか。
ラスト・チルドレンの花歩との初対面の日時は学校の先生を通じて決まった。しかし約束の時間より一時間ほど前に学校の先生から連絡が来て、病院に行ってくださいと言われた。木人が病院に行くことはほとんどない。そもそも体の構造が違うので、異常があっても、木人を対象とした研究施設に行くしかないのだ。
病院の前にはカメラの前でマイクを持って話している、テレビ局風の人々がいた。その日の夜のニュースや次の日の新聞に簡略に取り上げられる事件に、これから関わることになることを、病院に入る前のボクは知らなかった。花歩の思いがどれほどのものか、そしてマスコミの冷淡な捉え方がどれほど間違っていたかも、何もかも。
甘木花歩。十四歳。問題児。小学校までは男の子として生きていたが、中学校に入る時に女の子に転換した。ボクに与えられた情報はこれだけだった。そして今日、入院中であることもわかった。
病室を覗いて得た新情報——右足の膝から下がない。
看護師か学校の先生か木連の人か、大人の誰かが一緒にいることだと何気なく想像していたが、花歩は一人きりで、窓の外を眺めていた。何を言えばいいか分からず、そのラスト・チルドレンらしい端正な顔立ちを見入った。ラスト・チルドレンは、人間で言えば東洋人と白人とのハーフのような顔立ちをしている。瞳は紺に近いディープブルー。額より少し奥まった美しい線の目は、どこか悲しげで、物事の奥を見ているような印象を与える。ラスト・チルドレンに直接会うのは初めてだが、写真で見る彼らはいつもそうだった。日本の科学者たちが一番美しいと思う形、一番理想的に感じる姿にデザインされたのだろう。ボクの世代より遙かに洗練された美的効果を、この片足の少女は持っていた。
シーツは丸めてお腹あたりで抱えていて、包帯が巻かれた右足の半分が丸見えになっている。
「誰?」
「ヤナギハラナビキという者だけど」
「ああ、南に惹かれると書いてナビキ。そういえば変な名前の人が学校に来る日だった」
ようやくボクに視線を向けた花歩は薄らと微笑んだ。
「ファーストではなさそう。何代目?」
「フォース」
ふーん、と興味なさそうにまた窓の方を向く。入口に立っているのも居心地が悪いので、とりあえず中に入ってベッド横の椅子に腰掛けた。座る前に少しだけベッドから距離を広げて座る。この存在にどれほど近づいていいか、見当もつかない。
「先生を呼んだ方がいい?」
木連からボクの職業を聞かされているのだろう。
「いや、南惹でいいよ」
「そう。じゃあ、南惹さん、私をどう指導してくれるの?」
面と向かった青い瞳は想像以上に透き通っていた。この子のためにボクにできることがいったいあるのだろうか。
「知らない。ただ行けと言われて断れなかったから来ただけ」
「ぷっ」
花歩はとても明るく笑った。片足をなくしたばかりの人だとは思わないほど朗らかに、子どもっぽく。しばらく笑った後、彼女はいとも自然に、自分の足が切り落とされた経緯を語り始めた。
「私が学校にノコギリを持っていって、あいつらに切らせたの。教室の真ん中で。皆が見ている中で。そうじゃないと意味がなかったから」
「切らせた? 何でそんな……」とボクか口を挟もうとすると、怨むような目で黙らされた。彼女には彼女の語り方があるのだろう。ボクがもう口を開かないことを確認してから、彼女はまた語り出した。
「中学生は、バカ。小学生よりも。何だか自分がとても大きな存在だと思い込んでる。中二病って、誰が言い出したのかわからないけど、うまいこと考えたんだね。自分が社会を守るヒーローだと思い込んでるやつが一人いて、それをサポートする猿が二三人。他はまったく違うことで頭でっかちになっているけど、ヒーロー気取りがやることにはなぜか流される」
ボクは彼女がどうして中学校から女子になったのか聞きたかったが、話を遮らないために我慢した。親も兄弟もいない木人には、個人的な話をする相手が少ない。本音を語れる相手なんて、学校にも施設にもいないのだろう。親友がいれば別だが、なんだかそういう友だちがいそうな気はしなかった。
「ヒーローには悪役が必要なんでしょ? 私が木人だから、成績がいいから、目が青いから、他の女の子より断然かわいいから、理由はいくらでもあるだろうけど、社会を正すために退治されるべき相手に、私が選ばれたの。何も悪いことをしない悪役に」
そしてボクの疑問はすぐに解けた。
「小学校では男の子だったから、他の男の子たちが私の運動神経に嫉妬して意地悪をしてきたり、女の子みたいな見た目だとからかったりして、中学校に入ったら女子になろうって決めたのに。女子として大人しくしていれば、放っといてくれると思ったのに、そうはいかなかった」
いじめ。どんな些細なことでもそのきっかけになり得ると聞くが、最近の世の中じゃ、木人の子どもがいじめられない方が珍しいのだろう。しかし、足の切断は、いじめと言える範囲を超している。犯罪も重犯罪だ。ましてや、切らせた……とはいったいどういうことだろう。
花歩は一つ一つの出来事を整理するように、ゆっくりと考えながら話した。
そのヒーロー気取りの少年の名前は山下で、山下はある日、一台のトラックを見たらしい。『人民の害虫、イノコ出て行け!』と大きな字で書いた幕をまとったトラックの上には、数人の人が立ってマイクに叫びかけていた。不断なら特に気にも留めず通り過ぎていたはずの光景だが、ある言葉が彼の気を引いたのだ。「イノコには感覚というものがないんです。体に血が流れていないわけでしょ? 神経も通ってないんですよ。美味しいもしょっぱいも臭いもわからない。そんなのに感情なんてあり得るもんですか。イノコには感覚も、感情もないんです!」
山下はそれを聞いて花歩を思い出した。放課後、マックに行こうと誘った時の、彼女の冷たい表情が頭に浮かんだ。別にいい。そう呟いた声には感情などなかった。
モンスター。
木人は——甘木花歩はモンスターだ。
「山下という子が本当にそう思ったのか? それとも君の想像?」
「彼の口から聞いた話。さっきまでそこに座ってたから」
山下は見舞いに来ていたらしい。彼女の足を切り落とした張本人として、罪悪感を感じたのかも知れない。懺悔でもするように、自分の気持ちを告白して帰ったそうだ。
トラックのスピーチを聞いた日から、山下は花歩に感覚も感情もないことを証明するためだけに生きるようになった。いわゆる「甘木実験」が始まったのだ。初めは小さな針で後ろから刺して、反応を観察した。うなじをほんの少し刺すだけで、チクッとしたのか手で押さえながら振り向いた。山下は何もなかったかのように歩き去った。神経が走っているのか、仕組みは分からないが、かなり敏感な感覚を持っているのではないか。
しかし、山下は諦めなかった。鋭い物を感じるなら、熱い物はどうか。ライターで熱したスプーンを、さりげなく彼女の腕に当ててみた。熱い! とまたすぐ反応した。ごめんごめん。ただのアクシデントのように振る舞う。重い物を足に落としてみたりもした。周りの子たちは山下が花歩を単にいじめていると思い、何人かが面白がって参加し始めた。実験が功を為したのは、氷を使った時だった。魔法瓶に入れてきた氷の欠片を一つ彼女のシャツの下に後ろから流し込んだところ、何の反応もなかった。念のため違う子にもやってみたが、冷たい、としっかり反応した。大発見だった。木人は冷たさを感じない。
この結論は少し間違っていたが、木人は確かに冷たさや寒さに強い。冬でも外で生きられるようにできているからだ。木人は服を着なくても冬を越すことができる生き物だ。衣類の生産に使われる資源やエネルギーを減らすことが目的だった。しかし、全く感じないわけではない。花歩はその時、いじめにうんざりし始め、何かを入れられたのは感じたが、あえて反応しなかったのだった。
それを成功と捉えた山下は、ようやくかれの実験のことを周りの子たちに伝えた。木人無感情説はマスコミでも取り上げられ始めており、子どもたちは自分で確かめることに興奮した。そうやって、集団的な実験、つまりいじめが本格的に始まった。
集団で動き出したことをしらなかった花歩は、気づくまでほんの少し時間がかかった。集団で相談した結果、山下の単純な実験とは違うレベルに達した。単なる感覚や感情ではなく「人間的」な感覚や感情があるかどうかを、徹底的に、そして彼らなりに科学的に実験していったのであった。その「人間的」の定義も、しっかりと資料に基づいていた。彼らにとっては極めて人間的な反応の持主が大勢登場する、韓国ドラマを参考にしたのだ。
まず女子の一人が水筒に入ったお茶をいともわざとらしく、教科書が開かれている花歩の机の上に溢した。この場合、人間的な反応は怒って「何してんだ」と怒鳴りつけること。みんな自分でもそうすると同意した。しかし、花歩はそれをハンカチで拭いただけで、怒らなかった。
「私は休み時間にも勉強していたから、妬まれただけだと思ったの。だからくだらないいじめに付き合う気がなくてだまってただけ」
でもクラスのみんなにとっては最初の勝利だった。体育でのドッジボールの時間にわざと頭ばかり狙われたり、靴を花壇に隠されたり、一般的ないじめも多かったが、いじめともいえない斬新な実験もあった。クラスの終わりに、先生が出て行った後、花歩以外の全員が立ち上がって同じ動きをし始める。動き自体は手を振るとか何でもいい。みんなが同じ動きをする事がポイントだった。人間的な反応は、理由をしらなくてもみんなに会わせて自分も同じ動きをすること。今度も、花歩はそうしなかった。
「低知能に付き合う気はない。どうとも思わなかった。無視し続ければ良いと思った。でも、作戦はいろいろあったのよね。まんまとはまったのもあったよ」
クラスメイトの一人、物静かな女の子が、花歩に話しかけてくれた。みんなが意地悪してたいへんでしょ、って。別にいいと言っても、時々側に来て、好きな本の話をしてくれた。花歩も本が好きだから、何気なく話を聞くようになった。ある日、その女の子は花歩を自分の家に誘った。飼っている犬を見せてあげると言って。花歩は犬も好きだった。女の子の家には小さくてかわいい仔犬がいた。花歩にもすぐ懐いて一緒に戯れていると、人間がいう幸せというものが何なのか、少し分かる気がした。こういう世界なら生きていけるかも知れないと、一瞬感じた。
その数日後、女の子は涙目で花歩に話した。仔犬が突然死んでしまったと。悲しかった。花歩も悲しかったけど、とても木人らしい行動をとった。泣いている彼女の肩に手を置き、動物が死ぬのはとても自然なことで、良いも悪いもなく、自然の原理で動いているから、悲しむ必要はない、と。精一杯の慰めのつもりだった。私たちも全員死ぬんだから。そう付け加えたところで、女の子は花歩の手を振り払って立ち上がった。
「信じられない。人間的な感情が本当にない、この人」
建物の角に隠れて動画を撮っていたらしい連中がそのとき花歩の前に出てきて、山下が彼女を指差し、「モンスター」だ、と言った。花歩はようやく、彼らの実験のことを知った。
「人間を信用した私が悪かった」
無感情で言う花歩の声に、ボクは身震いしそうになった。木人も恐怖を感じる。そしてなんとなく、花歩の中に燃えたぎっている激しいエネルギーのようなものも、はっきりと感じ取れる。木人にもこういうものがちゃんとあることを、どう証明すればいいのだろう。
彼らの実験のことを知った花歩は、明らかに彼らをバカにして、挑発するようになった。大げさに反応をしてみせたり、やられた分、仕返したり。ささやかな戦争が続くある日、山下がついにカッターナイフで花歩の指を切った。
「きゃっ!」と声が出た。痛みが全身をしびらせる。
「うそつけ! 演技だろう。痛みなんか感じないくせに」
山下はそう怒鳴って、今切りつけたばかりの指を強く握った。
「ほら、血も出ない。痛いわけがないだろ」
木人に血は出ないが、代わりに白い樹液が出る。人間にとって「血」というのは大事らしく、反木団体もよく血が流れていないことを言及する。
「カッターナイフは私にもあったから、あいつも切りつけてあげようかと思ったけど、やめた」
「そんなことしてもどうにもならないだろ」
「それより、もっといいアイディアが浮かんだから止めたの。ここからがクライマックスだよ」
花歩は西東京の一角にある施設に、他の木人中学生・高校生三十人ほどと住んでいた。大きな庭がついていて、裏にはこじんまりした林もある。週に一度、西村さんという庭師が来て庭の手入れをするのだが、みんなは彼をドクターと呼んだ。木のお医者さんという意味で。ドクターはいつも庭脇の小屋から様々な道具を出して、みんなはまるで手品の箱だと笑い話ししていた。そこにはもちろん、木の枝を切るためのノコギリも入っていた。
「いじめが辛かったとか、堪えられなかったんじゃないの。子どもの遊びのような実験がむずがゆくて見てられなかっただけ。こそこそとして女々しい。私が人間なのかどうか試したいなら、もっと大胆にすればいいと思った。一発でわかるような実験をすればいい」
ボクは厭な予感がした。と言っても、結果は目の前に見えている。痛みはボクの世代も感じるが、ラスト・チルドレンほどではないと聞いた。花歩の行動は、にわかには信じられない。
「だって知りたくない? 自分が人間なのかどうか。いや、自分は人間とどう違うか」
指に切り傷ができたくらいで、彼女は泣き叫んだりしなかった。
ノコギリで足を切り落とされることがどれほど痛いものかはわからなかったけど、血が出ない分、死にはしないことは知っていた。ノコギリは鞄に入りきらず、人の頭ほども突き出た。新聞紙でくるくるまいて持っていくと、施設でも学校でも、幸い何も聞かれなかった。
昼食の時間、食事を取る必要のない木人は普通、教室を出て木人用の設備に入る。しかしその日、花歩は出ていかなかった。
「これからあなたたちの実験に協力してあげるから、あなたたちも協力して」
花歩はそう言って机をどかし始めた。教室の真ん中に円形のスペースを作り出しても、誰も動こうとしない。
「私が人間とどう違うか知りたいんでしょ。見せてあげるから手伝って」
もう一度促した時、山下がふんと鼻で笑って机を動かした。すると何人か手伝い、開かれた空間に三つの椅子を置いた。花歩は鞄から新聞紙に包まれたノコギリを出し、新聞紙を剥がした。はっ、えっ、うそっ。露わになったノコギリを真ん中の椅子のバタンと置く。
「これで私の足を切り落として」花歩は一人ひとりの目を見ながら言った。
一方の椅子に座り、真ん中の椅子に足を乗せる。スカートをめくりあげ、透明に近い肌の素足を晒し、ノコギリの歯の所を握って持ち上げた。
「誰がやるの? これは木を切るための道具だから、それで私を切っても犯罪にはならない。私がちゃんと痛みを感じるかどうか、見たいんでしょ?」
噂が広まったのか、教室には他のクラスの子たちも押し寄せてきていて、廊下からも窓越しに見ている人が徐々に増えていった。しかし誰も何も言わず、動かない。花歩は山下の目を見て、ノコギリのハンドルを彼に差し出す。彼の泳ぐ目がおかしくて笑いそうになったけど、こらえて真剣な顔を作る。
「痛いと泣き叫んでも、ただの演技だから、気にしなくていいんだよ。山下が言ったように、木人は痛みを感じないんだから」
山下の周りに立っていた男子たちが彼を前に押した。早くやれよ、というように。誰もが自分ではやりたくないと思いながら、見てみたい、とも思っているようだった。
百人以上が見ている前で、ひるむわけにもいかず、山下は無言でノコギリを手に取った。ゆっくりと向かいの椅子に座る。彼が周りを見渡すと、みんなは興奮した目を見張っている。花歩には彼らがゴキブリの集団に見えたが、山下にはどう見えたのだろう。花歩は自分の膝を指差した。
「このへんが一番切りやすいかも」
山下は片手で持ったノコギリを花歩の膝にそっと添えた。手が尋常じゃなく震えている。
「ただの木だろ。血も出ない。痛いわけがない。こんなことするなんて、やっぱり感情がおかしいだろ」
山下は自分に言い聞かせるように呟いた。
「そう。だから私が大声で叫んで止めろといっても止めないで。最後までちゃんと切り落として」
花歩は山下の左手——ノコギリを持っていない手——を取り、自分の太ももに置いて握らせた。
「しっかり持たないと切れないよ」
山下の顔が真っ赤になる。その紅色の感情を慌てて隠すかのように、山下は手を動かし始めた。発情期の猿のように力強く。刃が通る鈍い音がしたのはほんの一瞬。
きゃあああぁぁぁぁぁあああ。ぐおあぁあぁああ。とても醜い、死にゆく獣のような声が花歩の喉から出た。これほどの痛みを感じる能力を、人造人間に与える必要があったのだろうか。咄嗟に科学者たちを怨む。
叫んだのは花歩だけじゃなかった。女子男子関係なく、何十人も思わず声を上げていた。山下の手が止まったのを見て、花歩は彼の髪の毛を握り耳に怒鳴りつけた。
「止まるなって言ったろ!」
興奮が変な方向に向かっている男子の何人が「早くやれよ!」と怒り出した。
山下も訳の分からない雄叫びをあげ、力を込めてごしごしとしだした。
むぐるぅぅぅぅううああああ!!くぉうわわぃぃぃやあああ!!! 正にモンスターの声が花歩の奥底から湧き出る。全身の筋肉がよじりもだえひるがえり、椅子から半分はみ出た形で山下のノコギリを持つ手に手を伸ばした。
「もう止めて」
聞こえたのかどうか分からない。女子たちのほとんどは泣き叫び狂乱状態になって、何人かは気絶したようだった。木人に気絶する機能はないのか。なんて不公平だ。大量の蜂蜜色の樹液が椅子の上に流れ、床に落ちていた。いくら狂ったような人でも、もう見ていられず目をそらしていたし、その場で吐き出す子もいた。実行員の山下だけが、無心に、与えられた任務を遂行しようとしていた。
「もう止めて!!」
今度は花歩の声ではなかった。前線の何人かが叫びだし、野次馬の人間たちが大勢、止めろと怒鳴った。「なんてことをするんだ!」と。今になって。始まる前は興味津々だったくせに。
花歩の右足が三分の二ほど切られた時点で、ようやく大人たちが現れて大衆を切り分け、山下を抑えた。花歩はもう自分の椅子から落ち、片足だけを空に突きあげていた。性器のないキューピーのところは丸見えで、パンツははいていなかった。女性の先生は、まるで性器があるかのように花歩の下半身を自分のカーディガンを脱いで隠した。
それらの動きが終わった時、世界が止まった。誰も何をどうすればいいか分からない。その瞬間、花歩は痛みを忘れた。そして真実を見た。人間は応対能力の低い動物なんだ。初めて直面する出来事には反応できない。それぞれが頭の中に持っているマニュアルに従ってものごとに反応し、対応するだけなんだ。今起きた出来事への正しい対応の仕方は、誰のマニュアルにも書かれていなかった。だから世界は一瞬止まった。マニュアルの中で一番使えそうな行動を、誰もが探していた。
そして一人の天才が誕生した。
「山下のやつ、本当にひどい」
ああ、この一言で群衆は気づいた。一人を悪者にすると万事解決だ。それは大人になるにつれて、頭にインプットされる法則だった。
「そう、悪魔」
「そうだ。山下ってマジで悪魔」
先生たちまでも、その法則に従った。「山下、なんでこんなことをした!」
やっと人間らしい行動が取れるようになった人間たちは、急にハキハキとして働き出した。その朦朧とした大義感の芽生えとともに、花歩は人間扱いされ、人間用の救急車で人間用の病院に運ばれた。
「私はそのあと眠ってしまったけど、足は病院で最後まで切ったっていってた。大学に電話したら、白百合先生がいったん切り落として、新しい足を栽培してくっつける方がいいって言ったんだって」
週末に遊びに行った話でもしたかのように、彼女はこのむごい物語を締めくくった。白百合先生とは、木造人計画のトップを務めた科学者だ。
「ねえねえ、切り落とした足を土に埋めると、もう一人の私が育つと思う?」
「さあ……」考えた事もない。
「白百合先生が来たら聞いてみよう。あんな有名人に会うのは初めてだから緊張するけど」
ボクは何故自分がここにいるのか分からなくなった。つかみ所のない、なのに恐ろしいほど激しいこの少女のために、ボクは何ができるのだろう。マニュアルにない場面に出会った学校の人間たちのように、ボクもしばらく止まったまま、彼女を眺めていた。